記事公開日 :  2026/06/26

人的資本開示の義務化|育成データを企業価値へ繋げる項目と事例

人的資本開示の義務化|育成データを企業価値へ繋げる項目と事例

2023年3月期より、大手企業を対象に人的資本の情報開示が義務化されました。

本記事では、義務化の背景から、企業価値向上に直結する「人材育成」に関する開示項目、投資家への効果的なアピール方法までを具体的な事例を交えて解説します。単なる法令対応にとどまらず、人材への投資を企業の成長ストーリーとして語るためのヒントを提供します。


人的資本の情報開示とは?義務化の背景を解説

人的資本の情報開示とは、従業員が持つ知識、スキル、能力などを企業の「資本」と捉え、その価値を定量的なデータで社外に公表する取り組みです。これまでは財務情報が企業価値の主な判断材料でしたが、現代では無形資産の重要性が増しています。特に、持続可能な成長(サステナビリティ)を実現するためには、人材への投資が不可欠という考え方がグローバルで主流となりました。

こうした背景から、投資家が企業のサステナ経営を適切に評価できるよう、情報開示の義務化が進められました。

【いつから?】人的資本開示の義務化対象となる企業

人的資本の情報開示義務化は、2023年3月31日以降に終了する事業年度に係る有価証券報告書から適用されています。

具体的な対象となるのは、金融商品取引法上の有価証券報告書を発行している国内の上場企業など、約4,000社です。これらの企業は、有報の「サステナビリティに関する考え方及び取組」の項目内で、「人材の多様性の確保を含む人材育成の方針や社内環境整備の方針及び当該方針に関する指標の内容」などを記載する必要があります。

企業価値を高める「人材育成」に関する開示項目とは?

人材育成に関する情報の開示は、企業が将来の成長に向けてどれだけ積極的に投資しているかを示す重要な指標です。研修費用や時間といった直接的なデータだけでなく、どのような人材を、どのような方針で育成しようとしているのかを具体的に示すことで、企業の経営戦略と人材戦略の連動性をアピールできます。これにより、投資家は企業の持続的な成長可能性を評価しやすくなります。

人材育成への投資は、将来の企業価値を創造するための先行投資として、極めて重要な意味を持ちます。

内閣官房が示す「人的資本可視化指針」の7分野19項目

内閣官房が公表した「人的資本可視化指針」は、上場企業などが情報開示を進める際の重要なガイドラインです。この指針では、投資家との対話を促進するために、開示が望ましい項目が7分野19項目に整理されています。

7分野には「人材育成」をはじめ「エンゲージメント」や「流動性」、「ダイバーシティ」などが含まれます。人材育成の分野では、具体的な開示の項目としてリーダーシップ開発やスキル・技能習得への投資などが挙げられており、自社の経営戦略に沿った指標の選定が求められます。企業はこれら7分野19項目の内容を参照し、自社の強みや成長性を最も効果的に伝えられるデータを取捨選択して開示することが期待されています。

具体的な育成データの指標例(研修時間・費用など)

人材育成に関する開示で用いられる具体的な指標の例として、定量的に測定しやすいものが多く挙げられます。代表的な指標には、従業員一人当たりの研修時間や研修費用総額、および一人当たりの費用、研修参加率などがあります。さらに、企業の戦略に合わせて、特定のスキル保有者の割合や資格取得者数、次世代リーダー候補の育成プログラム対象者数といった、より戦略的なデータも開示されます。

これらの指標は、企業の育成への注力姿勢を客観的に示す根拠となります。単に数値を公表するだけでなく、前年度の実績や目標値と比較して提示することで、教育投資の推移や成長性をより具体的に伝えることが可能です。

国際的なガイドライン「ISO 30414」で求められる指標

グローバルな投資家を意識する場合、人的資本報告に関する国際的なガイドラインであるISO 30414が重要な基準となります。この規格は、国内外の企業が比較可能な形で人的資本に関する情報を開示することを目指しており、11の領域にわたる58の指標を定めています。人材育成に関連する項目としては、総労働時間に対する研修時間の割合や従業員一人当たりの研修費用、リーダーシップ開発などが含まれます。投資家向けのレポートなどで、このガイドラインに準拠した情報開示を行う企業も増えています。

自社の育成状況を国際基準で可視化することは、客観的な信頼性を高めるだけでなく、グローバルな市場における自社の立ち位置を把握することにもつながります。共通の指標を用いることで、競合他社とのベンチマークも容易になります。


投資家に響く!育成データを経営戦略に結びつけるストーリーの作り方

人的資本のデータをただ開示するだけでは、投資家からの十分な評価を得ることは困難です。重要なのは、それらのデータが自社の経営戦略の実現にどう貢献するのか、一貫したストーリーとして説明することです。例えば、中期経営計画で掲げた海外事業拡大という戦略の実現のため、グローバル人材の育成にこれだけ投資し、結果として海外売上比率が向上したというように、戦略と人材育成施策、そして業績への貢献を紐付けるデータの活用が求められます。

以下では、投資家に納得感を与えるストーリー構築の具体的な手法や、他社と差別化を図るためのポイントについて詳しく解説します。

「As is - To be」モデルで現状と理想のギャップを示す

説得力のあるストーリーを構築する有効なフレームワークが「As-is To-be」モデルです。これは、まず自社の経営戦略を実現するために「To-be(理想)」の人材ポートフォリオを定義し、次に現状の「As-is」を客観的なデータで分析します。

その上で、両者の間に存在するギャップを具体的な経営課題として特定します。このギャップを埋めるための施策こそが人材育成戦略であり、その進捗をデータで示すことで、計画的かつ論理的な人材投資を行っていることをアピールできます。

独自の指標を設定し、自社ならではの強みをアピールする

「人的資本可視化指針」などで示される一般的な指標に加えて、自社の経営戦略やビジネスモデルの独自性を反映した指標を設定することが、他社との差別化につながります。例えば、技術革新が重要なメーカーであれば「特定技術分野におけるエキスパート人材の育成数」、顧客との関係構築を重視する企業なら「顧客満足度向上に貢献する研修を修了した従業員の比率」などが考えられます。

こうした独自の指標は、自社の強みや価値創造の源泉がどこにあるかを具体的に示す強力なメッセージとなります。競合他社と比較されやすい共通の数値だけでなく、自社ならではの物差しを提示することで、将来的な成長可能性をより深く投資家へ印象付けられます。

測定したデータを定期的に見直し、改善サイクルを回す

人的資本に関する情報開示は、一度行ったら終わりではありません。収集・測定したデータを定期的に分析し、育成施策の効果を検証することが不可欠です。例えば、研修の前後で従業員のスキルレベルやエンゲージメントスコアがどう変化したかを測定し、その結果を次の育成計画に反映させる、といった改善サイクルを回すことが求められます。

こうした継続的なデータ活用と改善の取り組みを開示することで、企業が本質的に人的資本経営を実践している姿勢を示すことができます。単なる数値の公表に留めず、変化を追い続ける仕組み自体が、投資家からの信頼を得る鍵となります。

【事例3選】人的資本の育成データ開示に成功している企業

人的資本の育成に関するデータ開示は、多くの企業が試行錯誤を重ねています。その中でも、金融庁が公表する「記述情報の開示の好事例集」などで取り上げられる企業は、経営戦略と人材育成の連動性を分かりやすく示しています。

ここでは、特に参考となる3社の事例を紹介し、投資家から評価される開示のポイントを解説します。

【事例①】DX人材育成の目標と実績を明確に示した企業の取り組み

大手電機メーカーの例では、事業構造の変革を支えるDX人材の育成状況を、具体的な数値目標と実績を用いて開示しています。全従業員を対象としたDXリテラシー教育の受講率や、専門性の高いプロフェッショナル人材の育成人数を中期経営計画と連動させて公表しました。単に研修を実施するだけでなく、戦略遂行に必要なスキルを定義し、その充足度をデータで可視化している点が特徴です。

こうした取り組みは、事業戦略の実現に向けた人材基盤の強化を客観的に示す根拠となります。結果として、投資家に対して将来の成長可能性を論理的に証明することに成功しています。

【事例②】独自の育成プログラムと企業成長の関連性を可視化した企業の工夫

ある大手メーカーの例では、企業理念の浸透と実践を目的とした独自のリーダー育成プログラムについて、詳細な情報を開示しています。このプログラムの修了者数や、その中から経営幹部へ登用された人数などのデータを具体的に示すことで、育成投資が将来の経営を担う人材の創出に直結していることを可視化しました。

例えば、単なる研修実施報告に留まらず、プログラムを通じた行動変容がどのように組織の意思決定の質を高めたかという相関性を補足しています。理念に基づいた一貫性のある人材育成が、持続的な企業成長の原動力であることを効果的にアピールしています。このように、数値の背後にある「自社らしさ」を伝える工夫が、投資家からの深い理解と信頼につながります。

【事例③】従業員エンゲージメント向上の施策と成果を開示した企業の戦略

ある小売企業の例では、従業員の自律的なキャリア形成を支援する「手挙げ文化」の醸成を人材戦略の中心に据えています。社内公募制度への応募者数や、従業員が自主的に立ち上げたプロジェクトの数といった独自の指標と、従業員エンゲージメントサーベイの結果を関連付けて開示しました。

戦略の実行によって従業員の働きがいが高まり、それが組織の活性化につながっているという因果関係を明確に示しています。単に数値を公表するだけでなく、施策が組織文化に与えた変化を定量・定性の両面から裏付けることで、投資家に対して成長の持続性を説得力を持って伝えることに成功しています。


人的資本の情報開示を始めるための具体的な3ステップ

人的資本の情報開示にこれから取り組む、あるいは既存の開示内容を見直したい企業にとって、体系的なアプローチが不可欠です。

経営戦略との一貫性を持ち、かつ実務的に実行可能な計画を立てるために、以下の3つのステップを踏むことが効果的です。このプロセスを通じて、形式的な情報の開示に留まらない、企業価値向上に資する取り組みへと昇華させることができます。

ステップ1:開示目的と経営戦略との関連性を定義する

人的資本開示における最初のステップは、自社の経営戦略の実現において、どのような人材が、なぜ重要なのかを明確に定義することです。単に数値を並べるのではなく、中期経営計画や事業戦略を基に、将来的にどの事業領域を伸ばし、そのためにどのようなスキルや経験を持つ人材が必要なのかを言語化します。

このプロセスを通じて、情報開示の目的が単なる法令対応から、戦略の実行を支えるための不可欠な取り組みへと昇華されます。経営陣が描く成長シナリオと人材活用の方針を一致させることで、開示すべき情報の軸が定まり、投資家に対しても一貫性のある説得力豊かなストーリーを提示できるようになります。

ステップ2:収集・開示するデータ項目を選定し、目標を設定する

次に、ステップ1で定義した戦略との関連性に基づき、開示するデータ項目を選定します。「人的資本可視化指針」の19項目などを参考にしつつ、自社のストーリーを語る上で特に重要な3項目程度に絞り込むとよいでしょう。

例えば「DX人材育成」が戦略の核であれば、「DX研修の受講時間」や「デジタル関連資格の保有者数」などを選びます。そして、各項目について「3年後に保有者数を50%増やす」といった具体的な目標を設定します。単に数値を公表するだけでなく、目標達成に向けた道筋を明示することで、投資家に対して自社の成長意欲と実行力を効果的に伝えることができます。自社の強みを最も反映する指標を見極めることが重要です。

ステップ3:タレントマネジメントシステム等でデータ収集基盤を整備する

選定したデータを継続的かつ正確に収集・管理するためには、強固なデータ基盤の整備が不可欠です。多くの企業では、従業員のスキル、経歴、研修履歴といった人的資本に関する情報が部署ごとに分散管理されており、迅速な集計が困難な状況にあります。

こうした課題を解決するために、タレントマネジメントシステムなどのITツールを導入し、人事データを一元管理する仕組みを構築しましょう。デジタル技術を活用して情報を集約することで、開示業務の負担を大幅に軽減できるだけでなく、多角的なデータ分析が可能になります。

また、基盤を整えることは単なる数値の報告に留まらず、データに基づいた戦略的な人材配置や育成計画の立案にも直結します。システムを効果的に活用し、常に最新の状況を把握できる環境を整えることが、持続可能な人的資本経営を実現するための土台となります。

人的資本 経営 育成 データ 開示に関するよくある質問

人的資本の情報開示については、多くの企業担当者が様々な疑問を抱えています。

ここでは、特によく寄せられる質問とその回答をまとめました。開示義務化への対応や、より効果的な情報発信を検討する上で知っておくべきポイントを確認し、自社の取り組みに役立ててください。

Q. 人的資本の開示は、中小企業も対応すべきですか?

現時点で義務化の直接的な対象は有価証券報告書を提出する大企業です。しかし、中小企業にとっても人材は重要な経営資源であり、任意での開示は採用競争力の強化や金融機関からの評価向上につながる可能性があります。まずは自社の強みとなる人材関連の取り組みから情報発信を始めることをお勧めします。

Q. 開示するデータがない場合、どうすればよいですか?

開示できるデータがすぐに揃わない場合、まずはデータがない現状自体を経営課題として認識することが第一歩です。その上で、データ収集の仕組みを構築する計画を立て、初年度は「今後はこれらのデータを収集・開示していく」という方針を示すことから始めましょう。最初から完璧を目指さず、段階的に開示を拡充していく姿勢が重要です。

Q. 開示した情報がネガティブな内容だった場合のリスクは?

離職率が高いなどネガティブな情報も、隠さずに開示し、その原因分析と具体的な改善策をセットで示すことが重要です。課題から逃げずに誠実に向き合う姿勢は、長期的に見れば投資家や社会からの信頼獲得につながります。むしろ情報を隠蔽することの方が、後々発覚した際のリスクが大きくなります。

まとめ

人的資本の情報開示は、単なる法令遵守のための事務作業ではありません。自社の人材戦略を経営戦略と密接に結びつけ、持続的な企業価値向上のストーリーとして社外に発信する絶好の機会です。そのためには、まず現状の客観的なデータ分析に基づき、自社が目指す姿とのギャップを明確にすることが不可欠です。その上で、人材育成への投資がどのように将来の企業成長に貢献するのかを、一貫性のあるロジックと具体的なデータで示していくことが求められます。

こうした真摯な情報開示の積み重ねが、投資家や求職者といったステークホルダーからの深い信頼を獲得し、企業の持続的な発展を支える強固な基盤となります。


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